F病院の怪

はっきり見える

これは私が中2の時の出来事です。
近所の病院で緊急から入院まで出来る総合病院は、富士山のふもとのF病院でした。
田舎なので、看護婦さんや事務員、調理に売店、ほとんどの部署に親戚が勤めており、何かあれば必ずここへ来たものでした。

1階のロビーは、壁が4面あるとすると2面が総ガラスでした。
入口には背を向けて、ガラスの方にテレビや新聞、雑誌が置いてありました。
ロビーの中央には、鯉や金魚が泳ぐ水槽がありました。水槽の中央には天井まで続く岩のオブジェ、岩にはユキノシタなどが生え、岩の上から水がチョロチョロ還流していました。時々、小さなミドリガメなども泳いでいて、病院へ行った時の待ち時間が楽しかったことを覚えています。

goldfish-swimming
goldfish-swimming

私のおじいちゃん

私のおじいちゃんは明治35年生まれで、私が産まれた時にはもう70代後半でした。
「おじいちゃんは満州事変に行ってきた」と言っていました。(満州事変ー 昭和6年勃発)
おじいちゃんのお父さん(私のひいおじいさん)は、日清戦争(明治27年勃発)と日露戦争(明治37年勃発)に出兵したそうです。
与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は明治37年の日露戦争の時に出来た詩ですから、だいぶ歴史を感じます。

おじいちゃんは、明るくて、かわいいニット帽をかぶってよく薪割りをしていました。薪を割って、上手に丸く束ねて、針金でくくっていました。実家がキャンプ場をやっていた時、薪はすごく売れました。

私は背が低く、体も小さかったので、よくコタツでおじいちゃんに抱っこしてもらいました。一緒に大岡越前や、水戸黄門を見ました。
おじいちゃんは自転車に座布団をひもでくくり付けて、
「つかまってろよぉ。」
と、私を自転車に乗せて散歩してくれたりしました。
今思い返すと、80代のお爺さんが子供を自転車に乗せて走るなんて、かなり元気なお爺さんです。

おじいちゃんが入院した

この元気なおじいちゃんも、としを取り、体が年々弱くなりました。
おじいちゃんが転んで、腕を怪我した時もF病院にかかりました。
おじいちゃんの腕の怪我を見て、おじいちゃんがかわいそうで泣いたこともありました。すると、
「おじいちゃんは戦争へ行ってきただ。こんな怪我じゃ死なないぞ。」
と処置室のベッドで横になっているのに強がって見せてくれて、心強く思いました。

私が中2の春から秋の間、おじいちゃんはいつからか知らされていませんでしたが患っていた肺がんが悪化し、F病院へ入院しました。
何回もお見舞いに行きました。入院は長引きました。
「年寄りだから、がんもゆっくりだ。」
とおじいちゃんは言い、いつもお菓子をくれました。
ベッドを平らにすると
「溺れているように苦しい」
と言い、ベッドを起き上がれるようにすると、今度は肺に重力がかかるのか、
「寝ても起きてもどっちでも苦しい」
と言いました。
大好きな優しいおじいちゃんが苦しがっているのに、何もできず申し訳なかったと思います。無力で、悲しかったです。

昼間、病院の庭にいたお洒落なおじさん

その日、おじいちゃんの具合がとても良くないらしいとの事で、母と弟と私の3人で午前からおじいちゃんの病室へお見舞いに行きました。
当時は私が中2で弟が小6で、まだ子供だったので、おじいちゃんの病室にずっといるのは飽きてしまいます。
ロビーに行って水槽を見たり、院内の自販機でジュースを買ったり、売店へ行って親戚のおばさんにお菓子を買ってもらったりしながら、お見舞いの時間を過ごしていました。

まだ院内へ探検に出る前に、おじいちゃんの病室の窓から外を見ると、病院の庭にトレンチコートで帽子のおじさんがいました。

病院の庭は、何ヘクタールもある広大な広さで、外灯やベンチのスペースもなかなか広いのですが、そのスペース以外は森でした。
そこは、一応外灯やベンチがあるのですが実際には観賞用にある程度で、駐車場からも遠いのもあって、この庭で過ごしている人など実際みた事は初めてでした。
地元のひとはそこにはあまり近づきません。なぜなら首吊り自殺の多い森だからです。

私は視力が良く、裸眼で両眼2.0で、2.0以上測ればあったかもしれません。
そんな訳で、そのトレンチコートのおじさんがよーく見えました。
こんな田舎にあの服装をしてるなんて、県外からお見舞いに来ているひとかもしれないなぁ。と思い、おじさんを観察しました。

おじさんは外灯のまわりに立っていました。時々歩いたりして、位置を替えながら、2~3本あった外灯の下に立っていました。
探検へ行って帰ってきても、おじさんは庭に立っていました。
だいぶ長時間経っても庭にいたので、もしかしたら家族が手術を受けているのかな、と考えました。
おじいちゃんの病室は3階だったので、おじさんのお洒落な帽子のてっぺんのほうは見えるのですが、顔は隠れていてみえません。

午後、他の親戚のお兄ちゃんや色々な人がお見舞いに来て、あっという間に午後3時くらいになりました。様々な親戚が帰ってひと段落つきました。

午前から庭にいたおじさんも、もう院内に入ったのかな?と外をのぞくと、まだおじさんは立っています。
えっ?ちょっとおかしいな・・・と感じました。
そういえば秋とはいえ昼間の日光がずっと当たる場所なのにあんなコート着てるし、見る都度そこでうろうろしてる。不審者だったらどうしよう。
そう思い、母に
「ねぇ、あの人見て。変じゃない?」
と聞くと、
「はぁ?どの人?」と言います。
ふざけてるのかなと思って、もう1度おじさんの居場所を指すと、
「いないじゃん!もうよして」
と言われました。
へ?
こちらが嘘ついてるとでも?
弟を呼び、半信半疑でおじさんの事を伝えました。
弟が庭をみています。その庭にはやはり例のおじさん1人が歩き回っています。
「見えないよ。どこにいるの?」
と弟がいいます。
「そこ!そこだって!その右側の外灯の下だよお。」
指さして大きな声で言いました。おじさんに聞こえるかもしれませんが、そこにいるのに何故母と弟は『見えない』と言うのか。
なんかちょっと理解不能です。どうにか見えたとひとこと言って欲しくて、一生懸命に場所を教えていました。
大きな声を出していると、母もカーテンのこちらへ来ました。
「まぁだ言ってるぅ?居やしないよ。」
「Hちゃんうそつきぃ。」
信じられません。
こんなにはっきりとそこに居る人を見えないと言うのです。
昼間だし明るいし、怖くもなければ、嘘つき呼ばわりです。
言って損したと思いました。

腹立たしいのでおじさんの観察をやめて、おじいちゃんの横の椅子に座ると、
「Hちゃん、苦しい・・・。」
とおじいちゃんが私の手をギュッと強く握りました。爪が、手の甲にくい込みましたが、おじいちゃんは、ハァ、ハァ、ハァと苦しそうに息をしていました。
私達は時間の許す限り病室にいました。

帰る時間になり、もう日が落ちるころでした。
「お義父さん、行くよぅ、また明日くるよぅ。」
と母が言うと、
「うん・・・」
とかすれた声で、おじいちゃんは返事をし、私達も、
「おじいちゃん、また来るね!」
と言い、帰路につきました。
帰りの車窓から、煌々と光る大きな月が見えました。
月に照らされて右手の甲を見ると、おじいちゃんの爪の跡がついていました。
おじいちゃん、よっぽど苦しいんだなぁと、心がキュッと苦しくなりました。

big moon colored gray
big moon colored gray

コートのおじさんは・・・

家に着いてから、ご飯を食べたりお風呂に入ったりして、明日の学校の支度をして、ベッドにはいりました。私はしばらくして眠ったようです。
真夜中に、カチャ とドアが開く音がして、私はすぐに目が覚めました。

廊下の薄明かりがまぶしい、何?と聞くと、母が
「いま、おじいちゃん亡くなっただって・・・病院から電話来た。」
「え・・・」
祖母が看病する中、おじいちゃんはあちらへ旅立って逝ったそうです。
産まれてからずっと側でニコニコしていたおじいちゃんが、今はもう息をしていないなんて信じられません。涙があふれました。
右手の甲には、もうおじいちゃんの爪の跡は無くなっていました。
もう、おじいちゃん苦しくないんだね・・・。
心にぽっかり穴が開いたような、穴に風が吹いて通り抜けているような、喪失感を感じました。

おじいちゃんのお葬式や法要が終わり、少しいつもの生活に戻ったころ、ふと、あのトレンチコートのおじさんの事を思い出しました。

あのおじさんは昼間から、おじいちゃんのお迎えに来ていたのかもしれません。
おじいちゃんのお父さん、もしくは若く戦死したおじいちゃんの弟・・・ そうだったらいいな。と思いました。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

前の記事

後ろ

次の記事

出たぁ!!!